「古場」は、佐賀市富士町の集落の名前です。
佐賀市になったのは、つい最近のこと。
「三瀬のとなり町」といった方が、福岡の人は場所をイメージしやすいかもしれません。
福岡の中心部からは車で1時間ぐらいのアクセスで、緑も豊かな田園風景が広がっています。
しかし、どこの農山村にも共通するように高齢化と過疎化が進んでいるのも確か。
そんな古場集落に、実はここ数年で5組12人が移り住んでいます。
集落の一番の若手農家であり、移住者が増えるきっかけを作っている木下さんに、「なぜ移住者が増えているのか」を伺いました。
古場は126人の集落(2010年国勢調査)なので12人といえば、約1割になります。
そのほとんどが地元農家の木下健一さんの縁で移住したそうです。
彼は、地元では貴重な40歳の若手農家です。
富士町の農業体験講座である「親農塾」を一緒に行っている仲間でもあります。
木下さんは古場生まれの農家ですが、ずっと古場にいたわけではありません。
横浜国立大で流体力学を学んでおり、大学院に進学して素粒子を学びたいと考えていました。
本当は農業を継ぐ気はなかったそうですが、94年に地元に戻り就農します。
「素粒子に興味を持った理由もそうですけど、『モノゴトの根本は何か』を考えることが好きなんです。」
「93年頃の記録的なコメ不足の影響もあって、生きることに直結している『食べ物』の重要性をすごく感じました」
というのが、就農の理由なのだそうですが、正直、私はイマイチぴんときませんでした。
掘り下げて聞いてみても、就農に際してコレ!という決定的な要因があったわけではないみたいです。(笑)
ただ、世界的に食料が足りなくなるのではという危機感を当時から感じていたそうです。
現在木下さんは、減農薬で米と約20品目の野菜を作っていますが、就農当初は4反のハウスでほうれん草だけを作っていました。
「当時は、JAへ全量出荷していて、高いときには一束400円で売れていました。でも、毎年同じ野菜をつくるので、連作障害が出て病気になりやすく、収量もどんどん減ります」
「そのため年1回は土壌消毒をします。臭化メチルという高温の毒ガスで土壌殺菌するのですが、だんだん罪悪感を感じまして…」
「人に喜んでもらいたくて野菜を作っているんですけど、この状態を知ったら、どう思うだろうと」
「土の疲弊も酷いんですよ。有機肥料の利用を考えだしたのもこの頃です」
その後、徐々にほうれん草を減らしながら、イチゴの栽培を始める。
佐賀市内に在住する親戚を通じて、口コミだけで販路が沖縄から北海道まで広がった。
デパートの大丸では、高級フルーツとして扱ってもらえ、リピーターも50組ぐらいいたそうだが、2008年にはイチゴ栽培をやめてしまう。
「リーマンショックの影響が大きかったですね。デパートの売上がいきなり半減しました。生活必需品じゃないから、みんな買わなくなります。生活に本当に必要なものを作らないといけないと強く思いました」
「それにイチゴは経費がかかり過ぎます。ハウスのビニールなどは毎年張替えですし、加温のための重油もバカになりません。作業量も多いから家族に負担がかかります。1パック400円を切ると、とても厳しかったです」
イチゴをスパっとやめたので、2008年は収入が減って厳しかった。しかし、並行して始めていた米の収入でなんとか乗り切った。その後は、トマト、タマネギなど生活に不可欠な野菜を中心に減農薬で栽培を行なっている。
物理が好きなだけあって、木下さんの農業は、非常に科学的です。
土づくりの際に、酸性アルカリ性の度合を測るPhだけでなくEC(電気伝導率)まで測る農家は初めてみました。
その一方で、販路についてはまったくの口コミまかせです。
作付品目を変えると、ゼロから顧客の開拓をしないといけないにもかかわらずです。
現在作っている野菜にしても、旅館やレストランなどの紹介で販路が広がっています。
山間部の農地は面積も収量も限られるので、大規模な販路は無理にしても、もう少し欲を出してもいいのではないかと思うくらいだ。
しかし、取材中に時々訪れる取引相手との話を見ていると、野菜の味は当然のことながら、木下さんの人柄や誠実さに惹かれてやってくる人が多いように思った。
斯くいう私もその魅力に惹かれ、お米を買うようになった一人だ。
5kg2,000円は、スーパーと比べると1割程高いが、味以外にも木下さんのこだわりや努力などの情報付加価値がかなり付いている。
口コミで顔の見える付き合いが保てれば、市場との競争力もあるのだと思った。
移住者の受入を行なっていると冒頭に書いたが、事務局をつくったり、募集などの宣伝を行っているわけではない。
これも口コミを通じて相談があれば、信頼できる人で協力したいと思ったときに、移住先の住宅探しや地主さんとの交渉などを手伝っているという話である。
最初に移住を手伝ったのは9年前。
知り合いの画家から田舎暮らしをしたいという人を紹介されたのがきっかけだった。
会社を2つも経営していた人だったので、少しサポートするだけで、自分でなんとかしてくれそうだったので、お手伝いしたそうだ。
それからこれまでに6組の移住(1組は古場外に移住)を手伝っている。
農村集落に通うようになって、ようやくわかったのだが、農家は私たちビジネスマンと比べても、とても忙しい。
祭りや法事などの催事はもちろん、共有地などの管理作業や行政関連の会議などもある。
JAだけに出荷する人はまだいいが、自前の販路を持つ人は農作業だけでなく、配送作業などもある。
もちろん会計経理の事務作業もある。木下さんはそれらをほとんど一人でこなしている。
「そんなに忙しいのに、よく移住者の斡旋とかできましたね」と、自分も親農塾の協力を依頼したことを棚に上げて質問すると、「集落にとって一番大事なのは『ヒト』ですからね。
古場で40代の農家は私だけです。ほとんどが80代の人ばかり。人がいないと、集落を維持できなくなってしまいます。
これからは人を育てたい。親農塾に協力しようと思ったのも、その思いがあったからなんです」と言われた。
自分より下の世代がいないというのは、とても強い危機感になっているようだ。
とはいっても都市住民の農村移住にはトラブルがつきものだ。
都市住民は最悪の場合、集落を出ていけばよいが、先祖代々の農地を持つ農家はそうはいかない。
斡旋した人が地元とトラブルを起こすなどのリスクが当然心配になる。
「たしかに移住者と集落とのトラブルはあります。だから、自分がそのトラブルを含めて移住者をまるごと引き受ける覚悟が入ります。だから信頼関係を構築できない人の受け入れは無理ですね」といわれた。
そこまでの覚悟をして付き合うから、しっかりとした人間関係ができているのかもしれない。
移住してきた人たちは、お風呂を借りにきたり、一緒に映画を見たり、エネルギーの自給について夜なべで語ったりと実にいいコミュニティができているように思う。
この魅力に引かれて古場に移住したいという人たちが、私が知るかぎりで、すでに2組ある。
これからの農村居住は、空き地や空き家を探して移り住むのではなく、気の合う集落を見つけ、しばらく通いながら、そこに空き地や空き家が出るのを気長に待つ方がいいのかもしれない。
将来の古場集落の姿が楽しみである。