こんにちは、ほんちゃん(@hmasa70)です。
東日本大震災から9年あまり。
何度も現地を訪れたいと思いながら、なかなか機会を作れずにいました。
今回、九州大学建築学部のプロジェクトチームと糸島市の連携事業のお手伝いで、たまたま東北に視察に行く機会に恵まれました。
視察の目的は、防災機能を踏まえたコミュニティ施設のあり方。
とはいえ、視察を企画していただいた黒瀬先生が以前から震災復興のプロジェクトに関わられており、各地の防災まちづくりの取り組みを教えていただきました。
震災復興の取り組みを全く知らなかったので、現地を通じて学ぶことが非常多かったです。
備忘録を兼ねてそれぞれの都市で感じたことを綴りたいと思います。
飛行機で岩手の花巻空港に入る予定でしたが、強風のため急遽新幹線で現地入り。
おかげで東北新幹線はやぶさに、初めて乗ることができました。
東京から仙台までは1時間半、新花巻まで2時間半。福岡から岡山、新大阪の距離感です。
思った以上に東北地方が東京に近いことに驚きます。
岩手の内陸部に入ると、平野部が広がっていて、雪風が吹き荒れていました。
飛行機が飛ばないのも納得。
屋敷林が多いのもこの風の強さのためか、と車窓の景色をみながら感じました。
初日は交通手段が変わったこともあり、大船渡市についたのは日が暮れてから。
街灯がほとんどないので闇が深く、 街の様子はほとんどわかりません。
朝起きると、ホテルの窓からちょうど街の様子が見えました。
新しい住宅が増えているとはいえ、空き地も目立ちます。
大船渡市は震災後、人口4万人を切り、なかなか戻っていないようです。
ちょうど眼下に大船渡線BRTの駅があったので、1時間ほど眺めていましたが、ほとんど人が乗りません。
気になってネットで調べると、大船渡線は一日70便運行し乗車人員は220人ほど。
1便あたり6〜7人と、なかなか厳しい。
BRTは日田彦山線の復旧でもテーマですが、ここよりも人口密度が低い地域です。
公共交通の持続性を根本から問われている気がしました。
朝食を取り、向かった先は気仙沼市。今回の視察で唯一の宮城県の都市です。
九大学生である田中惇敏さんが震災後、復興のボランティアをしながら、仲間と立ち上げたゲストハウス「架け橋」と子育てシェアスペース「Omusubi」ハウスの見学が目的です。
その話は内容が非常に濃かったので別途、ブログに書きたいと思います。
ここでは、街をめぐりながら、気になったことを紹介。
気仙沼では、昔ながらの商店街が一部残っていました。
視察先でお昼のランチに紹介してもらったお店もその商店街の一角にありました。
そこのまかない丼(マグロ丼)は大トロが一人では食べ切れないほどのボリューム!
マグロ漁業が盛んな地域なだけあります。
地場産業が続いていて、ほんとによかったと思うひとときでした。
一方で海岸に近い方の商店街は、再開発の真っ最中。
堤防とターミナル機能、商業施設と交流スペースなどが一体的に整備されています。
歩行者目線での海の眺望を確保したり、圧迫感を与えない工夫が随所にみられ、最初は堤防の存在に気づかないほど。
ただでさえ、土木工事、建築工事、商業施設などの調整が大変なのに、デザインや景観の配慮まで丁寧に行っていることに、頭が下がりました。
「まち・ひと・しごと交流ブラザ」はあいにく休館日でしたが、ロビーには自習を行う地元の子どもたちや親子連れが多くいました。
自然と人が集う場所を生み出していることが、何気にすごいと思います。
市でも「ぬま塾」、「ぬま大学」などを通じて、まちづくりの担い手や次世代のリーダー育成に力を入れているのだとか。
ハード整備に盲目的にならず、「人」や「環境」に投資する。
中長期を見据えて、地道に布石を打っているなと感じました。
3日目の朝は、釜石市の津波の避難場所に連れていってもらいました。
現地に赴く前に、久しぶりに当時の津波の映像をみましたが、何度見ても胸がつまります。
港には魚市場などの漁業施設は戻っていますが、住宅地はまばら。
どの地域でも感じたことですが、戸建住宅の自力再建はなかなか進んでいないようです。
街に戻りながら、道路が津波の避難路が視覚的にわかりやすいよう設計されていることを教えてもらいました。
都市計画レベルで配慮すべきこと、できることもまだまだあります。
その一方で、基礎の嵩上げの取り組みはバラバラでした。
既存住宅であったり、制度変更の影響もあるそうですが、住民や民間事業者に委ねる取り組みの難しさも感じました。
釜石市の復興公営住宅も見学させてもらいました。
中心市街地に溶け込むように配置されているのは、都市規模が小さく、被害が部分的だった釜石ならではです。
建物自体も公営住宅とは思えないほどオシャレなもの。グッドデザイン賞も受賞したのだとか。
集会所が幼稚園と向かいあって配置されていて、自然とコミュニケーションが生まれそうです。
ちょうど住民の方々が数人縁側に座っていて、私たちも話しかけられました。
朝の体操の後、デイサービスの送迎前に集まっていたんだそうです。
話題として建物の使い勝手を聞いたところ、意外にも厳しい意見ばかりでした。
南面のべランダが繋がっておらず、利用できる空間が限られる上、避難ができないとのこと。
1階は水捌けが悪く、湿気がたまる上、台風で浸水するなど大変だったそうです。
そもそも1階は住宅予定ではなかったらしく、戸数を増やしたいためにムリが働いたようです。
「戸建てに住んでいたから、この歳になって共同生活はキツイですよ」
女性の自治会長さんの言葉には、住宅やデザインやコミュニティなどについて、いろいろと考えさせられました。
陸前高田市に入ったのは夕方。
被害の規模が他の都市と比べて桁違いで、津波浸水区間を長く走っているだけで緊張してきます。
復興祈念施設の閉館時間には間に合いませんでしたが、隣にある道の駅の震災遺構はみることができました。
遺構の周りが当時のグランドレベルとすると、どれだけ周りが盛土で嵩上げされているかがわかります。
陸前高田市では、地域全体を嵩上げするために、巨大なベルトコンベアーが5年前まで稼働していたんだとか。
土を切り取った場所は住宅地となり、そこから街を見下ろすことができます。
嵩上げされた広大な土地は、ほとんどが更地のまま。
7割近くが未利用となっているそうです。
切土の住宅地もまだまだ空きが目立ちます。
人口が2万人に満たない都市で、低密度かつ広範囲に住宅地が分散しているのは、なかなかツライ……。
「津波のないところに住みたい」「地元を離れたくない」と相反する思いを地域の持続性を踏まえて、計画に落とし込む難しさを感じました。
最終日は、大槌町の吉里吉里地区と赤浜地区に足を運びました。
吉里吉里地区といえば、井上ひさしの小説「吉里吉里人」の舞台とされた場所。
たしか、日本政府に対して独立宣言をした話だったよなと思っていると、到着していました。
吉里吉里地区は、他の地区と比べると非常にコンパクトで、住宅もかなり戻っているようです。
復興計画や土地利用の変遷は、下記のサイトがわかりやすいです。
まちの中心部に公民館が広場と一緒に配置されています。
建物のデザインはシンプルで、規模もそれほど大きくありません。
ただ共用スペースを兼ねたホールを中心に、ホールを3つに分けて使えたり、調理室とホールがつながっていたり、広場に向けた縁側が開放的だったり、地元の人たちの使い勝手が丁寧に考えられています。
地域の祭りや映画祭などで公民館を開放することも多いのだとか。
「ここじゃ、いつでも飲み会がセットだから」と公民館長さんが笑っていましたが、地域の人たちのまとまりはとてもいいようです。
伺った当日も地元のお母さんたちが手芸教室で集まっていて、とてもにぎやかでした。
小説の舞台になったのは、こうした地域のまとまりがあるかもしれません。
もう一度、丁寧に訪れてみたい、そんな気分にさせられる地域でした。
大槌町の赤浜地区でも、ちょうど新しい公民館が開館したということで伺いました。
こちらは吉里吉里地区とは違い、体育館のような多目的ホールが併設されています。
あくまで避難や防災が目的で建てられた施設なので、バスケットやバレーの利用はできないそうです。
それに町の規程で利用料が高いため、子どもたちが利用しにくいのだとか。
施設は立派でも地元の人たちが使えないのは、なかなかツライものがあります。
昔の公民館では、寺子屋のように子どもたちが集まっていたんだそう。
当時の思いとは裏腹に、制度の制約や時間の流れなどでうまく機能しないモノやコトは他の地区でもいろいろあるのだろうなと感じました。
「広間は無料なので、こちらを子どもたちの自習などに開放したい」と館長さんが言うように、運用面を工夫することで、人の声があふれる場所になってほしいと願うばかりでした。
今回の視察を通じて、地域ごとに事情や状況がいかに異なっているかをつぶさに感じました。
地元の人たちと専門家たちが限られた時間や費用、リソースの中で、地域の文脈を読み解きながら、それぞれが独自に復興計画を考えられていました。
その計画の具体的なカタチをみることができたのは、訪れたタイミングとして非常によかったです。
ただ、一方で人の動きは本当にわからないとも感じました。
どの地域も住宅地の空きが目立ち、想定されたほど人が戻ってきていません。
これだけ低密度で高齢化も進む中で、10年、20年と地域活動が維持できるのだろうかと心配になります。
その一方で地元の人たちは淡々と日常生活を送りながら、厳しい現実に向き合っています。
ボクらこそ、恵まれた現状に甘えず、もっと真剣に将来を考えないといけないと刺激をもらえた視察でした。