こんにちは、ほんちゃん(@hmasa70)です。
「矢部川のカイ水路が面白いんですよ!」と聞いたのは、たしか2020年の夏ごろの話。
地域づくり仲間から説明を受けながら、「いったいどんな水路?」とめちゃくちゃ興味を惹かれました。
すぐにでも見に行きたかったのですが、草が茂らずマムシも出ない2月頃がベストだそう。
ということで、半年待ってようやく体験してきました。
そもそも現地を歩く前まで、カイ水路は「開」水路とばかり思っていました。
イメージは京都の琵琶湖疎水です(下の写真参照)。
水路がフタをされずに残っているものなんだと思っていましたが、実態は違いました。
確かに矢部川も琵琶湖疎水と同じように開水路の区間が多く存在します。
ただ矢部川の特徴は水量が少ないこと。
そのため、矢部川のカイ水路は田畑の灌漑用に使った水をまた同じ川に戻す構造になっています。
つまり川から水を引くため動脈だけでなく、同じ川に水を戻す静脈があるわけです。
川の水が循環する水路なので「廻水路」。
カイは「ひらく」ではなく、「まわす」のカイでした。
こうした循環構造の水路は全国でも珍しく、他に例がないそうです。
どんな水路なのか、行く前から楽しみでした。
今回は八女市黒木町に一旦車を置き、矢部川の源流付近までバスで上がってから下るコースを歩きます。
バスまでの時間が少しあったので、先にゴール地点を案内してもらいました。
矢部川沿いに降りると、取水のための堰がありました。
「対岸に廻水路の落水が見えるでしょ?でも取水堰より下流にあるんです。おかしいと思いませんか?」
言われてみると、確かに変です。
水が足りないから、わざわざ水を廻して戻しているはずです。
それなのに、取水堰より下流に落水してしまえば、せっかく戻した水を再利用できません。
しかも対岸は切り立った崖。
とても農地があるように見えません。
「水資源を確保するための廻水路じゃないの?」
「田んぼや畑に水を引くための水路じゃないの?」
廻水路を歩く前から、疑問がふつふつと湧いてきました。
取水堰と落水の関係については、上流に向かうバスの中で解説してもらいました。
実は江戸時代、矢部川の右岸は久留米領であり、左岸は柳川領と所有が違います。
矢部川の水源をめぐって、両藩が競合していたわけです。
相手よりも上流で取水し、相手の取水堰より下流に落水すれば、水を奪われることはありません。
「水量が少ないので、できる限り使いたいが相手には渡したくない」
そんな心理が廻水路にも反映されたようです。
水源をめぐる争いはどんどんエスカレートし、いくつもの廻水路が上流にできました。
その最上流にある花巡堰が、今回の廻水路めぐりのスタート地点です。
目指す花巡堰は、バスを降りてすぐ近くの場所にありました。
「細かい場所を示す資料がないので、『花巡』という言葉だけを頼りにドキドキしながら探しましたよ」
観光マップに載るような場所ではないので、堰を探すのも一苦労です。
花巡堰をみると、川の水全部が久留米領側に流れ込むような形に見えます。
「今は水位が低いからそう見えるけど、水量が多いときは越水した分が柳川領に流れますよ」
こうした堰の形状1つで取水量も大きく変わります。
渇水時などはお互い相当ナーバスだろうなと思いました。
「洪水後の堰の修復の仕方なんかでも揉めるので、日田代官所の調停を受けていたみたいです」
「いまだに配水に関わる置石があって、ちょっとでも配置を変えようものなら、えらい怒られますよ」
水の貴重さはいつの世も変わらないようです。
花巡堰が、藩同士の水争いの一丁目一番地なんだなと改めて感じました。
花巡堰からさっそく歩き始めましたが、すぐに水路は道路の下に暗渠になりました。
すぐに水路を発見しましたが、たいして広くありません。
説明がなければ、雨水用の排水溝として認識してしまいそうです。
水路は5キロほどもあるのですが、ほとんど勾配がないので歩くのはとても楽。
ただ、気を抜くと水路が急に暗渠になって曲がっていたり、道がないところもあるので、見失ってしまうことも何度かありました。
気がつくと歩き始めて数十分しか経っていないのに、元の河川とは高低差がだいぶありました。
水路は田んぼ沿いだけでなく、トンネルで山を貫通していたりします。
神社よりも髙い位置に水路が通っていたり、倉庫が水路をまたいでいたりと景色の変化もあります。
水のせせらぎの音が聞こえ、水面を涼しい風が流れるので、花巡堰の廻水路はハイキング気分で歩けました。
花巡堰の廻水路を歩き終わると、次は柳川領側の番です。
対岸にある三ケ名堰が新たなスタート地点です。
ただ橋がないため、川の中を歩いて対岸に渡る予定でした。
そのため、わざわざ長靴を各自準備していたのですが、たまたま河川工事で仮設の橋があったため、運良く濡れずに渡ることができました。
三ケ名堰の水路は花巡堰の水路と違い、ほとんど田んぼがありません。
河川沿いの崖に沿って水路が延々と続きます。
途中に岩盤をくり抜いた箇所があったり、崖の補強がされたところがあるなど、いかに難工事だったかがわかります。
水路沿いの田畑の面積を考えると、費用対効果が悪すぎます。
当時の水利権はそれほど重要であり、全体としてはプラスだったのか?
それとも最後は藩としての意地だったのか?
廻水路の工事が行われた歴史的背景に思いを馳せずにはいられませんでした。
今回歩いてみて驚いたのは、どちらの水路も5kmを超える長さにもかかわらず、管理状態がよいこと。
現役の水路として利用されているんだなと感じます。
矢部川の支流と水路の合流箇所もいくつかあり、氾濫した跡もありましたが、きちんと修復されていました。
現在も両岸それぞれに管理組織があり、水路の維持管理を行っているそうです。
とはいえ、外部はおろか地元の人たちにも廻水路の存在をほとんど知られていないのだとか。
水路の恩恵を受ける人達が少ないから?それとも離れてすぎているためか?
はたまた、当時の為政者が隠しながら造ったためなのか?
妄想は止まりません。
もっと地域の歴史を調べてから、歩きにくればよかったと反省しました。
次回は、下調べをした上でもっと下流の廻水路も巡ってみたいと思います。