こんにちは、ほんちゃん(@hmasa70)です。
太宰府天満宮といえば、学問の神様である菅原道真公を祀る神社。
ボクも大学受験の際、合格祈願で参拝したことをよく覚えています。
門前町はいつも多くの人でにぎわい、観光スポットとしても人気です。
でも昔から賑わっていたわけではないのだとか。
現在のにぎわいの背景には、長年に及ぶ地道なまちづくりが行われていました。
天満宮の方に現地を案内していただいたので、ご紹介します。
太宰府は政府機関の要衝
太宰府天満宮の馬場さんとは、西鉄太宰府駅前で待ち合わせ。
門前町のまち歩きと思いきや、車にわざわざ乗せてもらいました。
馬場さんには、太宰府市の児嶋さんと一緒に、大学の講義で太宰府の取り組みを紹介してもらったのがご縁。
「学生さんが緊張しないよう、ラフな格好で来ました」と、ユーモアを交えながら、気づかいをしてくださる人です。
その授業で太宰府に関心を持った学生たちが、「ぜひ現地で話を聞きたい!」ということで、一緒にやってきました。
最初に訪れたのは、太宰府の入口にある水城跡(みずきあと)。
今だと自然に形成された丘のように見えますが、全長1.2kmにも及ぶ巨大な土木構造物(土塁)です。
「白村江(はくすきのえ)の戦いって学校で習ったでしょ?その戦いに敗れた日本が唐と新羅の進攻に備えてつくったのが水城です」
水城は大宰府を守る防衛線としての役割を担っていました。
当時の最先端技術を使って守る必要があるくらい、「大宰府」は日本にとって重要な場所だったわけです。
この場所は現在も国道や鉄道、九州新幹線、九州自動車道などが通る交通の要衝でもあります。
1300年以上も昔に、重要性に気づいていたことに驚きます。
高速道路のインターチェンジも「南福岡IC」になりそうだったのを、立地場所の大野城市とも協議し、「太宰府IC」にしてもらったのだとか。
名称一つとっても後への影響を考えると、地域を認知してもらう重要な要素になっているのだなと感じました。
菅原道真公の住まいがあった場所、榎社
続いて向かったのは、榎社というところ。
地名が「朱雀」で大宰府政庁の南という、まさに神獣に守られた場所にあります。
ここはかつて菅原道真公が住んでいた南館があった場所と伝わっています。
「道真公は、罪人として大宰府に左遷されてきたため、大宰府政庁で政務に当たることはできず、一日のほとんどをここで過ごしたそうです」
太宰府に何度も足を運んでいますが、初めて訪れました。
観光客もめったにこないのだとか。
道真公は俸給もほとんどなかったので、食事にも苦労したそうです。
「生活に不自由な道真公の身の回りのお世話をした人が、浄妙尼と呼ばれるおばあさんです」
「麹の飯を梅の枝に添えてか、まきつけてこっそり差し入れたという話が残っています」
それが梅ケ枝餅の起源なんだそう。
9月の神幸式では、道真公の御神霊を運ぶ御神輿が天満宮から下り、榎社で1晩を過ごすそうです。
その際、御神輿はまず浄妙尼を祀る祠の前に行き、宮司が奉幣するのだとか。
話を聞くと、道真公の姿が目の前に浮かんできます。
「神幸式には、浄妙尼の子孫の方々も参加されますよ」
と帰り際に馬場さんが何気ない一言。
1300年以上経てなお、つながりが途絶えていないことに鳥肌が立つ思いでした。
大宰府政庁跡は市民の憩いの場
続いて訪れた大宰府政庁跡は、何度も訪れたことがあります。
当時は、九州全体を治める役所のような場所でしたが、現在は史跡公園として市民の憩いの場になっています。
快晴の金曜日だったこともあり、地元の小学生たちの歓迎遠足で大賑わいでした。
この場所も昭和30年代後半には、大規模な宅地開発の計画が持ち上がったことがありました。
開発と保存を巡り、行政と地元住民の間で大変な議論になったそうです。
個人的には、建物まで復元するのではなく、礎石だけを復元した保存になってよかったなと思います。
建物を復元すると、どうしても入場料を取ったりして、歴史に興味を持つ人たちに来訪者が限定されがち。
公園として整備されたことで、地元の人たちも日常使いできます。
訪れた人たちが、礎石の配置をみながら、建物を想像したり、自由に思いを馳せる余白があります。
歴史に紐づく場所を残しながら、地元の人たちにも開かれた場所。
観光地では地元より来訪者を優先しがちですが、どちらにも配慮がなされたいいデザインです。
「なくしてしまうのは簡単なんです。残っていると『なんだろう?』と、調べるきっかけになりますよね。残すことが難しい」
太宰府天満宮は榎社をはじめ、市街地の交差点の中にある鳥居など、飛地の境内を多く残しています。
「残った」わけではなく、「残す」。
太宰府市は「残す」ことの大切さを常に考え続けている街だと考えさせられました。
思いを受け継ぐ天満宮
最後にようやく太宰府天満宮まで戻ってきました。
太宰府天満宮には門前町を挟み、1300台が停められる巨大な駐車場があります。
この駐車場は、昭和30年代に米国留学から戻った第38代宮司の西高辻信貞が、整備したものなのだとか。
昭和30年代といえば、まだ自動車が普及する前のこと。
そうとう批判も浴びたのではないかと、想像に難くありません。
しかも、「駐車場が門前町より神社に近い所にあってはならない」と考え、門前町より遠くに配置していました。
門前町の氏子あっての神社であることを意識し、将来の発展を見据えたまちのデザインを当初から考えられていました。
ここで、ふと「第38代宮司」という言葉が気になります。
実は太宰府天満宮の宮司は、菅原道真公の子孫の方々によって受け継がれているそう。
天満宮の御本殿は、道真公のお墓の上に立っていて、そのお墓には現在も親族しか入れないのだとか。
道真公のご子孫がいたことも、太宰府のまちづくりに深く関わっていることも知らず、驚くことばかりでした。
変化も恐れない取り組みを続ける
太宰府について知らないことばかりで、街を歩きながら驚いてばかり。
門前町のこと、飛梅のこと、「梅の種」納め所のこと、特別な梅ケ枝餅のことなど、紹介しきれないことが山ほどあります。
1000年以上かけて受け継がれてきたストックに、圧倒され続けました。
でも一番凄さを感じたのは、「変化を恐れないこと」。
これだけ地域に歴史があれば取り組みも保守的になりそうですが、新しいことにも取り組んでいます。
その一端が感じられるのが、アートです。
太宰府天満宮の境内を注意深くみると、さまざまな現代アート作品をみることができます。
季節に応じて変わる紙袋やおみくじなどにもそのセンスが反映されています。
古くから残る太宰府の良さをきちんと残しながら、時代に合わせて変化すべきところは新しくチャレンジする。
「残す」だけでなく、「変化する」ことも受け継がれているんだと感じました。
もっと太宰府に通って、もっと魅力を知りたいと思うまち歩きでした。